愛する神の家族のあなたへ、主の平和🕊️
週末です。今週も神様の御助けと御恵みの故に、ここまで守られました。すべてが主に感謝です。
本日は次の御言葉をもって、イエス様の与えてくださる愛を持って愛する神の家族のあなたと、あなたの日本とアメリカのご家族の皆様のことを覚えて祈りました。
“ヒゼキヤがこれらの真実な事を行った後、アッシリアの王センナケリブが攻めて来た。彼はユダに侵入し、その砦の町々に対して陣を張り、町々を攻め取ろうとした。
ヒゼキヤは、センナケリブが来て、エルサレム攻略を目指しているのを見ると、将軍や勇士たちと協議し、町の外にある泉の水をせき止めることにした。彼らは王を支持した。多くの民が集まり、そのすべての泉と、この地を流れる谷川をせき止め、「アッシリアの王が来るとき、豊富な水を得させてはならない」と言った。”(歴代誌下32:1~4)
“ヒゼキヤ”はイスラエルが、南ユダヤと北イスラエルに分列されていた時代の南ユダヤの王様です。イスラエルの分裂という状況が象徴しているように、当時のイスラエルは、南ユダヤと北イスラエルに分裂してお互いに戦う、民族的にも、信仰的にもとても恥ずかしい状況にいました。
そう言う状況の中で、本日の本文の主人公のヒゼキヤが王様となります。彼は、ご先祖様のダビデ王の系統を引く正統性・legitimacyを持っている霊的誇りに満ちているはずのユダヤなのに、ソロモン王の時代から彼の父のアハズ王の時代まで徐々に駄目になって来て、
今はユダヤ全体が偶像崇拝に飲み込まれて、神様に対する畏れを失い、神様に捧げる礼拝もすべて途切れてしまったことを深く悲しんでいました。なので、ヒゼキヤは、王様になったその日から、南ユダヤを神様に立ち返らせるための出来る限りのすべてを尽くします。
彼はエルサレム神殿の扉を再び開き、礼拝を回復し、多くの丘の上に建てられていた偶像の神々に祈るための建物と偶像そのものを打ち砕きます。神様のさらに大いなる御栄を現すための彼のベストを尽くしての献身でした。
しかし、何故か、神様の御前でのヒゼキヤの最善を尽くしてのこれらのすべての真実な事を行った後、突然、隣の超強大国のアッシリアの王センナケリブが攻めて来ます。恐らく、ヒゼキヤはとても戸惑ったと思います。
だって、長年閉鎖されていたエルサレム神殿を回復し、礼拝を回復し、国全体から偶像の神々に祈るための建物と偶像を打ち砕いて、神様のための自分の最善を尽くしての真実な行いの後に起こる状況としてはこれは余りにも過酷で、それこそ予想外の出来事だったからです。
こう言う状況に会うと大体の人は躓きます。がっかりして、失望します。落胆します。挫折します。それで何も出来なくなってしまいます。中には、神を恨む者、呪う者も出て来ます。その結果、神を離れ、信仰を離れ、神様を知らずに生きていた時の偶像崇拝に戻ってしまう者も出て来ます。が、
ヒゼキヤは違いました。ヒゼキヤは神様の御前で自分に出来るすべての真実な事を行った後に起きたこの理解できない、納得いかないこの理不尽な状況の中ででも躓きません。むしろ彼は、たちまち南ユダヤのすべての将軍や勇士たちを呼び集めます。そして、彼らと協議に協議を重ねて、町の外にある泉の水をせき止める戦略を立てます。
つまり、躓いて、がっかりして、失望して、落胆して、挫折して、恐怖と恐れに捕らわれ、固まって、何も出来なくなってもおかしくないこう言う状況の中でもヒゼキヤは、そう言う状況や環境に影響されず、動じず、ただ、Here&Now、今&ここで自分がなすべきことを引き続き黙々と祝福と最善を尽くして執り行うだけでした。言わば、揺るがない信仰です。
面白いことに、こう言う状況や環境に影響されず、動じないヒゼキヤのこの揺るがない信仰は、彼の周りにいる人々にまでその影響を与えます。
つまり、周りの状況と環境に影響されず、動じない揺るがない信仰を持っているヒゼキヤを見た彼の周りの人々も、彼らの周りの状況と環境に影響されず、動じない揺るがない信頼を持ってヒゼキヤに従うようになったということです。
"ユダヤのすべての将軍や勇士たちは王を支持した。そして、さらに多くの民が集まり、そのすべての泉と、この地を流れる谷川をせき止め、「アッシリアの王が来るとき、豊富な水を得させてはならない」と言った。”がという本日の本本がまさにその意味です。
予想外の何かが起こった時のその人の反応こそがその人の真の顔です。ドッキリ番組の面白さがまさにここにあります。
普段は格好付けて、飾って、隠していたその人の普段の素の顔、本当の顔、人柄、人間性、人格…等が見られる、バレる、明らかになるその様が面白いから、世間の人々は、ドッキリ番組が大好きです。
信仰においても同じです。何もない普段の付き合い、交わりでは見えない、日曜日の礼拝での1時間半程度の関りでは見えていなかったその人の真の顔、人柄、人間性、人格…は予想外の突然の出来事に出会った時のその人の反応を通して初めて確認出来るものです。
しかしこれは、世間のドッキリ番組のように、突然の予想外の出来事で戸惑うその人の姿を見て、その周りの人々が 楽しめるためのものではありません。
信仰における突然の予想外の出来事は、普段の日常の中では気づけない自分の素の顔、本当の顔、人柄、人間性、人格、信仰…等を確認するための恵みです。何故ならば、自分の本当の実力、度合いを知らずに振舞っている内に何かにぶつかって、引っ掛かると本当に痛いからです。めちゃくちゃ痛いです。死ぬほど痛いです。
普通に暮らしている日々の中で遭遇するこう言う突然の出来事も大変なのに、神様のための自分に出来る限りを尽くした後に経験する突然の予想外の望ましくない展開の中で、揺るがない信仰を守り続けることは決して簡単なことではありません。
故に、わたしたちには、生きておられ、今も尚、わたしたちとともに、しかも、わたしたちの内に、わたしたちとともに住まわれておられるインマヌエルの神様の聖霊の助け、守り、支え、導き…等を絶対的に必要です。
信仰、特に、どんな状況の中でも揺るがない信仰、動じない信仰、影響されない信仰は、自分の中から自力発電で造り出せるものではありません。それは、わたしたちの内におられるインマヌエルの神様の聖霊が与えてくださる賜物・プレゼントです。参考:“またある人には同じ御霊による信仰が与えられ”(第一コリント人への手紙12:9)
明日の日曜日の礼拝を持って始まります、愛する神の家族のあなたの新しい一週間が、生きておられ、今も尚、あなたとともに、しかも、あなたの中に、あなたとともに住まわれて、あなたよりさらにあなたのために必死に働いておられる、あなたのインマヌエルの神様の聖霊が与えてくださる、
あなたの周りの状況と環境に影響されずの、動じずの、揺るがずのその信仰をもって、あなたの父なる神様を喜ばせることは勿論、その報いとして与えられるあなたの周りのすべての人々からのあなたに対する、 彼らの周りの状況と環境に影響されずの、動じずの、揺るがずの信頼と尊敬が絶えず、さらに強められる最高の毎日となりますように、すべてに勝るイエス様の素晴らしいお名前によって、祝福致します。


